2012年5月21日月曜日

養蚕あれこれ


今日は公園班の活動日です。
今年は津久井の養蚕について調べる、収穫感謝祭で発表するという計画をたてて活動しています。

今日出たお話は以下のとおり。
・宿場町について
街道や道について考えるときには宿場町や市の情報はかかせません。
戦国時代や江戸時代にはどのような状況だったのかを調べています。
例えば、戦国時代だと当麻や厚木の荻野に宿場町がありました。
江戸時代になると城山では久保沢や原宿に宿場町が。
このあたりと川和(中野付近)との関係は?
一時的に衰退しますが、その状況は?
などなどが今後調べていく内容になります。

いよいよ、色々な情報が集まってきたので、一度年表作りをしようという話になりました。
時間軸での整理を細かく行なっていくことが必要でしょう。
それと古道との関係を細かく見ていくことになりますね。

・当時使っていた道について
「絹の道」について調べていくと上野原から八王子のルートが上がってきます。
この時考えなくてはいけないのは津久井から上野原への道を整理しなくてはいけません。
そもそも、上野原に運ばなくてはいけないの?という意見もあります。
このあたりは絹という製品の特性上どこでも誰でも扱えるものではないということが大事なポイントになりそうです。

大分資料が集まってきたことにより、より具体的な話ができるようになってきました。
この他、養蚕を描いた浮世絵資料収集のプロジェクトも同時に動いています。
次回はそのお話ができそうです。


2012年5月13日日曜日

津久井衆出陣す(歴史班活動番外編)


鉢形城で開催された寄居北条まつりに出陣してきました。

鉢形城は埼玉県寄居町にある戦国時代北条氏邦のお城です。
津久井城とは異なり、丘城に分類される、比較的比高差の少ない城郭であり、深沢川と荒川が合流する地点に築城されています。小田原城を本城とし、埼玉県に位置する支城ですが、後北条一族の直系のお城です。

とても全体の残りがよく、1932年には国指定史跡に指定されており、現在は鉢形城公園として整備されています。

その鉢形城では1961年に『第1回鉢形城供養祭』が開催され、現在では名前を「寄居北條まつり」に変え、なんと今年で51回目を迎えます。


そんな歴史あるお祭り、我らが津久井衆は出陣してきました。


津久井地域でこれまで活動されてきた「城山を愛する会」さんから自作甲冑をお借りし、さらに主催する三鱗会さんにも甲冑をお借りし、のぼりは城主内藤氏のものと「津久井三十六騎衆」のものを従え、武者行列と戦再現に参加してきました。


お祭りは約1時間程度、町内を練り歩き、その後、河原で合戦再現が行われます。


行列の最中には「津久井ってどこから??」や「なんと津久井から来たのですか?!」と両方の声を受け、また道路沿いに集める皆様から嬉しいご声援を受けました。


それにしても暑い!重い!と嘆きたくなるのを抑え、近年稀にみる笑顔。しんどくても楽しいってあるんですね。






そして、お祭りのクライマックス。
合戦再現が始まります。
合戦は1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原攻めの時、鉢形城に陣取った郷土の武将北条氏邦は、5万人の豊臣勢を相手に、わずか3500人の兵力で1ヶ月余り攻防戦を続けた様子を再現したもの。
寸劇ではありません。
実際にヤリ(先っちょはスポンジで出来ています。)で突き合う!、叩き合う!、けん制しあう!というもの。
素直にヘッピリ腰になります。
各地で花火を利用した大砲が打ち上げられるなか、両陣営が中央に集まり、戦が行われます。




ん~怖い!
ヤリを向けられるだけで、こんなに怖いとは!!
これは新鮮な体験。今後津久井城の案内の際に行う武器の説明はより迫力ある伝え方ができるでしょう。
というようなことをぼんやり考えながら、そうそうに身体を突かれたため戦死。
無念です。
ヤリで突かれた場合はその場に合戦が一端終了するまで倒れていなくてはいけません。
もみくちゃになっているところで倒れる怖さといったら、もう・・・。

と、いうようなやり取りを行い、合戦は終了します。
北条方の津久井衆ですが、徳川方の軍勢に参加し、勝利した我々は意気揚々と帰路に尽きました。


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