2012年6月24日日曜日

第422回津久井城開城記念祭とご飯隊


本日は第422回津久井城開城祭の開催日。
もちろん今年が初めて時代祭になるのですが、戦国時代津久井城が落城してから422年が経ったということを伝えることを目的に第422回目の記念日ということにしました。

津久井城が開城したは1590年6月25日のことでした。小田原北条の関係支城が次々と落城していくなか、津久井城も徳川勢本多忠勝らに攻められ、開城します。
この日に合わせて、津久井城の開城記念祭を開催し、当時の様子を再現した寸劇「津久井城開城攻防の巻」を行いました。

関東地方の各都道府県からとその他にも遠くは岐阜県、愛知県からも我こそは!という方々が集結し、寸劇を行いました。そして、嬉しかったのは地元津久井からの出演することを名乗りでてくれたことです。
彼・彼女達はこれまでも去年の収穫感謝祭でも協力していただいたとても津久井城を愛してくれている方々です。そんな方々が結集し、「津久井衆甲冑隊」を組織してくれています。
なんとも頼もしいこの連合軍は「いざ、鎌倉!」ならぬ、「いざ、津久井へ!!」の精神で集結してくれているとても魅力ある部隊です。






そう、そしてもう一つ、魅力ある部隊をご紹介しなくてはいけません。
「津久井衆ご飯隊」です。
この部隊は公園に登録してくれているボランティア組織「SKT(好きなこと、興味があること、得意なことを合言葉に集まった助っ人!)」から手を上げていただき、イベント開催の重要なポジションを占めています。
当日は出演者の方々に振る舞うべく、午前中からお昼御飯の準備にとりかかりました。
お昼ごはんは攻防戦にちなみ、「豊臣秀吉を食らう!」という意味も込めて、戦国時代の御飯を再現した「太閤スープ」と焼き味噌、そしておにぎりを作りました。
焼き味噌には津久井在来の大豆を使用し、地元の魅力を全国から集った津久井衆甲冑隊に伝えるとともに、津久井商工会議所が作った「津久井城シリーズ」から醤油を太閤スープに使用するなど、なんとも手の込んだPR活動も忘れず、しっかりお腹を満たすこの手際。頼もしすぎます。
なんと作ったおにぎりは約100個。想定したよりとても時間がかかりましたが、その分、寸劇が終わったあとにも食べることができ大満足でした。


そしてなにより、津久井在来大豆を使った焼き味噌が美味しかった。焼き味噌はショウガ、ニンニク、ネギを入れて焼くというシンプルなものです。それがまぁ、御飯にとても合う。いくらでも食べれそうな雰囲気です。太閤侮りがたし。

作業しながら思ったことはやっぱり戦場と女性、そして支度をする部隊は必要だなぁということ。
戦場で頑張るもう一方で、それを支える部隊が当時もいたことでしょう。
そんなことを考える暇?があるほど、とてもいい手際でやってくださいました。
この部隊はまた別のイベントでも活躍していただきたいな!









さて、寸劇に話を戻しましょう。
寸劇は出演者は総勢22名。
津久井城が開城するまでを描いたものです。開城に至るまでにあった戦ややりとりなど脚本を書いた方がとても丁寧に調べており、「よくこんな文献みつけたなぁ」と脱帽するほど作りこまれていました。
もちろん、史実では定かではないフィクションの部分もあるのですが、観覧者にして納得し、感動してしまうほど、劇の最後のシーンの内藤氏が開城を決意する場面はとてもステキでした。
徳川勢本多忠勝らとの合戦の再現シーンでは相手方の規律よく動く反面、津久井衆はばらばらと活動する様子。こだわりすぎです。アラクモノだったという津久井衆の当時の状況まで再現された劇でした。

一つ、お話していなかったことはこの劇は当時の城主が住んでいたとされる御屋敷跡曲輪で行われました。そこに至る道程はパークセンターを出発地点にして行列を組み、御屋敷跡曲輪へ。
私が感動したのは行列が御屋敷曲輪へ至る様子です。山道へと入っていく様子は私の当時の開城の時の状況ととても酷似しており、おそらく当時もこんなだったんだろうなぁとしみじみ思いました。
ん~、なんとも不思議な気持ちです。







そんなこんなで第422回津久井城開城記念祭は幕を閉じました。
観覧者の皆様にも喜んでいただけたら、開催したものとしてとても嬉しいです。
そして、出演者の皆様と御飯隊の皆様。
おかげさまでとても素敵なイベントになりました。
ありがとうございました!
またぜひ、来年も開催したいですね!!

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2012年6月23日土曜日

蚕を育て始めました


本日6月23日より蚕を育て始めました。
津久井地域では養蚕との関係は切ってきれない関係があります。

2010年神奈川県では養蚕農家への助成を打ち切りをきっかけにして津久井地域でも養蚕農家は蚕を育てることをやめました。
それまで津久井地域では養蚕が主要な現金収入であり、また江戸時代には川和縞がつくられるなど生業と文化が花開いた産業でもありました。

このような養蚕は地域の歴史の大事なポイントなのですね。
今回の公園班の活動ではそれをより広げてみてみようということで絹となり製品が運ばれる過程、「絹の道」について調べを進めています。

で、最初の写真です。
ご協力いただいている団体の方より蚕の卵を頂きました。
普段は冷凍されているおり、それが解凍します。

そして、今・・・
まさに・・・
孵化して初めての食事をしているのでーす!!

この黒い細長いのが蚕の幼虫です。

2012年6月18日月曜日

養蚕の浮世絵をみるのである


さて、今日の公園班の活動は先日お話したように、養蚕を描いた浮世絵をみることにしました。
あいにく身体を壊して欠席された方もいたので、今日は全体を進めることはせずに、これまでの確認をすることにしました。

養蚕を描いた浮世絵が描かれたのは江戸時代にこと、現在データベース化されているのをみると始めと終わりとでは100年以上描かれた年代が異なります。

全体的に後半になればなるほど、色彩が豊かになっていくんですね。
このあたりは美術史としてみても十分面白そうですが、あらぬ方向に脱線しそうなので我慢しました。
一つづつみていくと、養蚕の基本的な流れに大きな変化はありません。
また模写した資料もあるので、書き手は違うけれど、変化せずという印象を持ちます。
しかし、よくよくみると使っている道具が変わったりと養蚕技術の変化をみることができます。

というようなことをあれこれみんなで話をしました。
次回はより具体的に課題をお話できればいいなと思います。


養蚕を描いた浮世絵は以下のサイトで見ることができます。

VR-浮世絵展示室
http://www.biblio.tuat.ac.jp/vr-museum/ukiyoe.htm


追記

次回の活動内容でもあります。

昨日、K地原さんとこに遊びに行って来ました。

いろいろとお話してきたのですが、

津久井の養蚕についての映像

・相模原市立博物館制作「最後の養蚕 2010年秋」

・桜美林大学の実習で制作された「25g」監督・撮影 入江修平

をお借りしたので、次回見ましょう。

あと、菊地原稔・守屋博文「最後の養蚕」『ふるさと津久井』5号 2012

の抜き刷りをいただいたので皆さんにお配りします。

2012年6月13日水曜日

津久井城跡市民遺跡調査団活動第1回



本日は今年度第1回目の津久井城跡市民調査団の活動日でした。
この活動は相模原市教育委員会、相模原市博物館と(公財)神奈川県公園協会の連携事業でそれぞれのチームで活動しているボランティアさんが集結し調査を行うものです。
第1回目の今日は今年度の津久井城址市民調査団の活動内容ともう一つ。
市立博物館から地質学の先生に来て頂きました。


内容は城山の地質・地形についてと津久井地域の地質についてお話いただき、その後は城山の山頂へ観察しながらの登山。

当初は発掘調査に必要な知識として城山の地質を学ぶというのが趣旨だったのですが、もちろんその中で収まらず、「多摩方面の地質と城山の地質は云々」、「山頂の油石は云々」などなどとてもおもしろい講義を聞くことができました。

さらに、城山の山頂から相模野台地方面を望むと、時期によって相模川が蛇行した様子や流れが変わっていった様子などがとても良く分からいます。
それはそれぞれが段丘崖を形成し、またそのあたりは開発しにくい場所などで緑で覆われた帯になっています。

というようなことも教えていただきました。
まだまだ興味深いことは尽きません。
次回は津久井城で出土した器についての講義です。

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